ブログのきっかけ ~その3~の続きになります。
徐々に良くなる旦那の病気に、借金問題。何が起こったか良くわからなくて。
必死で生きていた数週間。
人生というのは本当に不思議なもので、乗り越えられるからきっとこういう体験をしたんだと思い込めます。この時の経験が無ければ今の自分はない。
実際には良くなってもそこから這い上がるのは自分との闘いでした。
病気は良くなったけれど…
看病に加え、借金に旦那の周りの人たちの反応の冷たさ。
どうも色々聞いていると、会社の経営が良くないのを旦那のせいにして、旦那に多くの借金をさせていたというのを私に気づかれたくなかったようで。
旦那の借りている消費者金融のカードを探してほしいと言ってきたりもしました。会社の社長は毎日遊んでばかりいて、仕事をしている人ではなかったのです。そして仕事で足りない分の給料を旦那ともう一人の経営者に押し付けて、消費者金融でお金を借りさせていた。というのが実情だったのです。
そして命に係わる病気というのは24歳の私には重すぎる内容でした。
それでも旦那は少しずつ良くなって来ているようで。
3日目、ベットの上で てんかん を起こしているのを何度も見るけれど、トイレの時は意識があったりしました。数日経つと、半身麻痺の状態で車いすで移動できるようになりました。
徐々にであるけれども良くなって会話ができるようになってきました。
しかし、ほぼ介護状態。大人を介護するというのは本当に大変だと、このとき初めて分かりました。
私はというと、どうにか精神状態を保てるところのギリギリに居たのかもしれないです。
ご飯もまともに食べることもできないし、それでも仕事に行かなくてはいけない。
意識が回復してきた旦那は別人のようでした。
脳の病気というのは不思議なものでまるで別人になり、言動も驚くほどの変わりようでした。
にしても、当時は必死すぎて今は記憶があまり残っていないのです。
それでも仕事をしないと、生活費が無いし、会社と病院と家との往復の毎日をしていました。
1か月の間に、私の人生は変わった。その当時はそう思いました。
旦那は日に日に 介護しなくても一人で歩けるようになり、言動も少しずつ戻るようになっていきました。
薬の影響で幻覚が常に見えているらしく、よく貞子みたいな人が目の前に降りてくるとか、横で電車が走っていて、女の人が踊っていると言っていました。
この状況はかなり怖いらしく、きっと薬物中毒の患者さんはこんな状態なのだろうとその時感じました。
そんな状況でも、良くなってきているのは目に見えてわかったので少しの安心にはなりました。
そのあと、この病気にしては珍しく、早く回復して1か月で退院することができました。
ヘルペス脳炎と分かる前からの病院の対応が早かったのが良かったのかもしれないです。
しかし、病気は良くなっても、てんかんや発作を起こしていては働けないのです。
退院後は良くなるまで1年以上リハビリに通うことが必要になったし。
16歳年上の旦那を私が何年も養っていくことは無理だと思えたのです。
お金のことがあるので仕方ない。話し合いをして離婚することになりました。
旦那の実家にはいろいろ言われたけど仕方ない。それに、私も離婚で旦那から一銭ももらっていないし。借金のことも考えたくない状況でした。
旦那の実家の義母さんは働いていないので実家で面倒を見てもらう方がいいということになり、わざわざ私が働いて旦那の面倒を見るなんて、そんなことはできないと感じたのです。
旦那の借金額は多くは無かったけれど、当時経営していた会社の赤字を清算するためには、自己破産の選択肢しか無かったし、それが現実だった。
名古屋で1人放り出された私
名古屋で1人暮らしを始めることになった私。
住む場所は派遣先に近い場所にした。会社まで1駅という利便性と少しでも自分が心地よく過ごせるような環境を作った。
大須という街に住んで頑張って仕事をはじめました。
大須はいろんなお店があって、私も本当に好きな街でした。
ちょっと歩くと食べ歩きができ、古着屋があって、
下町みたいな風景もある。
一人暮らしの選択肢は悪くないと感じたのです。
まだストーリーは続きます
この内容を書こうと思った時、本当に悩んで…。ちょっと走り書きなので、伝わりにくいところがあるかもしれないけれど、目をつむっておいてほしいです。
自分がしたのは本当に正しかったのか?あまりにも不幸すぎないか?どう思われるのだろう?と いろいろ悩んで。でも、書く決断をしたのは前に進もうと思ったから。また続きを書きます。