大学を卒業後、母と2人で岡崎で暮らして仕事をしていた私。
昔から酒乱だった母と一緒にいるのが苦しくて、家を出たくて、そのために
すぐに結婚したいと思っていました。
そんな時出会った会社経営者の16歳年上の男性がいて、とにかく家を出て行きたかった私は結婚することにしました。
23歳の冬。勤めていた会社を3月に辞めて、
名古屋の本山という場所に結婚して引っ越しました。
ここは名古屋でも有名な高級住宅街。おしゃれな美容院や、飲食店を見ながら坂を上る。
そんな高級住宅街の中の、古びた賃貸が引っ越し先でした。
高校の時から、当たり前に5時にはバイトに出て、学校が終わるとまたバイト。
大学になってもほぼ休みの日はバイトだったので、働くのは結構好きで
本山に引っ越してから何とも思わずに新しい仕事を探して派遣の仕事を見つけました。
大手企業のネットワークインフラの部署の事務職をそのときしていました。
結婚生活は旦那に生活費を渡してもらえないという、少し不思議なところもあったけど、特に疑わずに1年が過ぎました。
本山という街も高級住宅街だけれども、下町っぽい一面もあって、気に入っていました。
そんな矢先、風邪のような症状で旦那が急に寝込むことに、、、
きっかけは風邪から
24歳冬のことでした。
旦那の熱が下がらなくなりました。
ずっと何件も病院を回っていました。熱が下がらず体力がない状態。
何度も医者に行ってもただの風邪という診断でした。症状は何もない。ただ熱だけ。
血液検査も異常なし。
どの医療機関もひたすら「風邪です」との診断。
2週間目には40度の熱が下がらなくなってほぼ寝たきりに。最後の数日は6時間ごとの解熱剤も効かなくなってきました。
性格も違う人みたいになって来ました。これは後で思うとそのあとに繰り広げられる病気の症状の1つでした。それに頭が割れそうに、すごく痛いと訴える。解熱剤は鎮痛剤だから、この時点で何かおかしいことに気づくべきだったと思いました。
「さて、どうしよう」と思い
夜21時に、2日前に行った八事の日赤の救急外来に行くことにしました。
3月初旬だったから、インフルエンザの人が多い中、「風邪での受診は…」とお医者さんに嫌がられたけれど。けども仕方ない。
マスクを5重くらいにした看護士さんや、子供、老人で救急はごった返している。夜なのに50人くらいは人がいました。仕方ない。こういう軽症の元気そうな人は正直「来ないでほしい」という印象を受けた。
やっぱり診断は「風邪ですね」という。でもそのあと、処置室に行き念のため「髄液検査」をすることになった。
家での看病に限界や不安を感じていたから、入院はむしろ安心だった。
結果を待たずに呼ばれた時に、看護士さんからは
「血圧が低すぎるので今日は帰れません」と。血圧は上が60だった。
あと1日遅かったら旦那は死んでいたのだろうか。命の灯は消えようとしている瞬間だったのかもしれない。
そのときは心に光が差してきた感覚で、安心したのを覚えています。
ずっと家で看病していた2週間。もう私も限界でした。
直らない風邪、それから食欲のない旦那。私は24歳、これ以上どうしていいのかよくわからなかったのです。
その後の髄液検査結果を待たずに、お医者さんから
「髄液がすごく濁っていて髄膜炎なのは間違いないので、いろいろな書類にサインしてもらいます。」
「この病気で一番怖いのは細菌性ではなく、ヘルペスによるもので、ヘルペス脳炎になる可能性は低いですが、命に係わるのでこの病気でなかったとしても治療をすぐに始めます。」
処置室で立ち話をしながら先生が「最悪の事態」について説明してくれる。
命に係わる状態になる人はほとんどいない。10万人に1人くらいの割合。でも、「万が一」の話を聞く。
それから、治療を始める同意書や万が一死亡に至った時の同意書などを書き
気づけばその時はもう夜中の1時を回っていた。
病室に案内され、看護士さんからは「髄膜炎ならすぐに治るから大丈夫!」と言われたのを覚えています。その言葉に安心して、とりあえず帰ろうと思ったのを覚えています。
HCUの一番片隅の個室に入った。それから入院の話を聞いて病院を後にした。
帰りのタクシーの運転手さんはやたら優しかった。あの時、しっかり話を聞いてくれた運転手さんにはとても感謝している。話すことでいくらかその日は気持ちが落ち着いた。
家に着いたのは夜中3時。気が気じゃなくて寝れなかったから入院の用意をしてその日は1時間くらい仮眠を取りました。