ブログのきっかけ ~その6~

ブログのきっかけ~その5~の続きになります。読みたい方は↓からどうぞ

ブログのきっかけ ~その5~

1.新しい土地で暮らすことに

全く知らないところで暮らすのは、これで4か所目。1つ目は大学時代、両親が離婚して仕方なく豊田市での1人暮らし。2回目は結婚してからの本山での生活。3回目は離婚してからの大須での1人暮らし。4回目は今住んでいる地域。

 

知らないところに行って1から生活を始めるのは楽しいです。

 

初めて見るものが好きな性格なのだと思うのです。

旦那は全くあてにならいので、賃貸契約からすべて1人で済ませて。

 

旦那も仕事が順調で世帯年収は1,000万を超えていました。

住んでいるマンションは家賃5万円台。駅まで少し遠く徒歩10分くらいだったけれど時々仕事がしんどくなる以外は楽しかったのです。

2.長男が誕生

長男が誕生したのが、私が26歳の時。仕事はその時は派遣だったので派遣元に育児休業を申請することにしました。

 

出産関連の制度自体がきちんとなかった企業なので、1からすべての制度を調べて会社にお願いして利用させていただくこととなりました。

 

会社も初めての経験ではあるけれども良心的な対応をしてくださり、無事取得できるようになりました。この時にいろいろと調べて社会保障制度を使うことを知った経験はいまでも、とても役立っています。

3.初めての産休育休

大学時代も服屋の店長として必死に働いていたので、正直働かない1年というのはイメージがつかなかったのですが、産休が始まり、やることが無い私は毎日公園に歩きに出ました。

1週800mの池の周りを7~10週歩いていました。

7月に毎日5~6kmを歩く。家に帰って100回スクワットをする妊婦でした(笑)

 

だからか、長男はかなりの安産でした。産休中はいつもくだらないブログ書いてたなって思い出しました。

 

母は昔から私に冷たいので、子供を見に来たのは退院後だったし、見て「宇宙人みたい」って言われたのが今でも記憶に残っています。別に母は嫌いではないけど、空気を読めない人。そして、その遺伝を自分も痛いほど引き継いでいて今でも自分が嫌になるのです。

 

出産前に母には「里帰りしないでしょ?」って言われていて。姉のときも散々いろいろあったようで、話は聞いていたから里帰り出産はやめておいたのです。

 

とはいえ、夫に買い物を任せたら、私は栄養不足で病気になるんじゃないか。と思うくらいのご飯しか買ってきてもらえず。仕方ないので退院して次の日にはあきらめて買い出しなどに行くことにしました。いいのです。何とか動けたから。

 

子供が生まれて、初めての育児も結構楽しかったです。大変なことは、めまいを発症したことと、長男の心配事でした。

 

長男は早いうちから友達とは全然違う感じで。他の子と比べてできることもすごく遅い。私の育て方がおかしいのだろうか。離乳食も全くと言っていいほど食べてくれないし、何度も子育ての相談に行ったりもしました。

それから小学校入学前に保育園の先生からこの子はちょっと小学校が心配ですと呼び出しがあったので、市の支援で相談をしています。おかげさまで勉強にはついていけているし、クラスでも低学年の時は色々と問題を起こしましたが、今は何もなくほとんど問題はありません。

 

長男の話は永遠と9歳の今まで忘れものをよくすることなどは引きずっているけれど、あの時のモヤモヤは、今では保育士さんや先生に理解してもらえるようになったので心の中はだいぶ楽で、娘が生まれて長男のようなことが全く無かったし、自分のことを責めるのも辞めることにしています。

 

長男が1歳になって仕事復帰をしました。そのころ旦那は以前の仕事の知り合いから一緒に働いてほしいと言われ、転職をしました。

4.仕事復帰

同じ時期に仕事復帰した私は三重県担当の営業となりました。

当時会社では初めての営業部として何をするのか分からない状態で、あるところからナースコールの新規入札案件の商談のヒアリングをしてほしいと頼まれてナースコールの導入案件を担当するようになりました。

 

誰も経験者がいない中、私は9:00~16:30までの時短勤務で復帰1年目は、分からないことだらけ。メーカーとの調整や仕様、工程表、納品内容や機器、系統図などの知識が皆無だったというのが正直な話。

 

なんとか仕様を決定し秋ごろに入札となりました。入札で受注できたのですが、その先も大変でした。現場監督さんとの打ち合わせで、設計書をCADで書く必要が出てきたり。

 

さて、私、どうする…CADスクールに通おうと思って真剣に話を聞きに行ったりもしました。

でも私には納期までの時間がない。諦めて独学でCADを勉強して系統図を何とか書きました。

納品時に必要だったので、そんな感じで1件目の受注をこなすと、それからはいろんな案件が来るようになりました。リプレース案件も含めて3年間で導入したナースコールは10件くらいです。

週に1度は松阪や伊勢、賢島まで出張をしていました。

 

 

長男はというと、初めの保育はずっと泣いていて、本当に預けるのが辛かった毎日でした。

秋になると風邪のシーズンで…毎週40度の熱を毎週のように出しました。

熱は何日も続く。鼻水をずっと垂らしている長男を預けて保育園を後にするのです。

有給はすぐに無くなりました。私も健康診断で肺に影がありますという結果をもらうくらい、風邪を子供からもらって出勤できない日が多く、心身ともに大変な毎日でした。

 

そして、旦那の転職先が本当にブラックすぎて、朝5時に家を出て夜中の2時に帰るのが当たり前(そう社長から言われていた)休みは無し。という会社だったので私はほぼ1人で育児をしていました。

 

途中、疲れすぎていたようで車で大きめの事故を起こしました。でもそれどころではなくて、自分はあの時は生きるのに必死だったと感じています。旦那は1年勤務しましたが、会社の成績が良くないからもう仕事に来なくていいと言われたのでそのまま退職することに。事実上の解雇です。

 

そして無職となりました。転職しなければよかったのに。私は反対したのに、いつもその反対を押し切って仕事をする旦那です。だから夫婦関係はいつも微妙。(本音が出ました笑)

 

書いたように、育児休業復帰の年はいろいろなことがありました。子供の風邪がとても大変なこと。旦那は知り合いから来てほしいと言われたのに転職先は、勤務も給料もブラックな会社で1年後に無職。でも、今までずっと大変なことがあったから、大丈夫。なんとかなると思って過ごしてきました。

 

私の仕事は思いのほか順調で三重県の大企業の受注も何件かあり、提案やリプレースの細かい対応などで復帰から3年目の1年間は受注が1億を超えました。

 

とはいえ女性だし、子育ての時短勤務で給料は、毎月手取り14万でした。男尊女卑というイメージの会社だから、私以外の育休取得の実績もなく理解者は居ませんでした。

でも楽しく働いたから、それでいい。時間も短いし、営業の私は何をしているのか分からないから、社内には私のことを批判する人も何人かいたのが事実です。

でも、この時の経験は本当に大切な経験で、今でも自分の基礎となっています。

5.お金の話をはじめます

お金に本当に困りだしたのは、旦那が無職になったとき。このままだとダメだなと思ったのがきっかけでした。

 

本屋さんで、ありったけの本を買いあさって全部読みました。(投資という意味ではよかったかと)その中に一番自分がしっくりきたのが個人型確定拠出年金(今ではiDeCoといいます)長くて分かりにくいけど、とにかく始めてみよう。

 

そう思い立って育休復帰してから始めることに。

学生納付特例を全額支払って始めることにしました。

 

やりたい!って人は思ってもなかなか始められないもの。そういうのってあると思います。でも、「はじめられない」自分が本当に嫌で、もうそんな人生はやめようと決めた27歳の時でした。

 

変えたい、変えたいって心で願うだけだと変わらない。

変えたい夢を語るくらいなら、今すぐやればいいんじゃない?って心に言い聞かせて。そこからはどんどん学ぶことに。

 

確定拠出年金で、一番ラッキーだったのは、保育園に子供を預けていたこと。

翌年からは一気に2万も保育料が下がって何がどうなったか分からなかったけど確定拠出年金のおかげで、ほぼ投資額が戻ってきたのです。

 

投資信託を買ってみる、株を買ってみる。

投資信託はその時右上がりだったから、損はしなかっし、確定拠出年金の投資信託もずっと右肩上がりで、本当に結果が良かったから、はじめて良かったと。心から思っています。

私はこの制度を知って救われました。人生の底を何度も味わって、それでも生きる希望を今持てているのはこの制度に救われたというのも1つあります。

 

きっとこの制度は誰かを救えるだろうから、だから発信したいと思った5年前。

税金も社会保障も知れば知るほど、自分の味方になってくれるもの。子供たちに安心をあげられるもの。

あの時、誰かの役に立ちたいと思った気持ちは今も変わりません。

6.なんで旦那さんと離婚しないのか

ほんと、そうだと自分でも思うのです。

私の旦那さんは、普段私が洗った皿を舐めまわすように見て、洗い直す性格の人。分別もそんなふうに市では定められていないのに綺麗に洗ったパックとか、全部分別しないと気が済まない。食事中はずっと長男を注意していて、ずっと怒っている。

 

自分で家を買ってくれない、貯金が未だにできない。仕事の休みがほとんどなくて、土日に旅行はいけない。税金を一切払ってもらえない。家に入れるお金は多くて20万。少ない時は15万。

 

自分の部屋は全然片付けないのに、私の身の回りは片付けろと言ってくる。私のクレジットカードを持って行ってなくしたことが何回もある。

 

嫌なことを挙げればきりがない。というか、ここまで書いたら、みんなの旦那さんの方が数倍いいかと思えるんじゃないかと。今日だけは旦那様にハナマルをつけてあげてください。

 

でもさ、家を買うこととか、給料を家に入れることとか、車を買うこととか、なんで旦那さんがしなきゃいけないのだろう。自分の偏見に気付いた時に、自分はこれでいいって思ったのです。

 

家だって女性が買ったって全然いい。シングルマザーからすれば1人でやらなきゃいけないし。だとしたら思い込みをすればいい。私は今はシングルマザーだけど、旦那は同居人のようなイメージで。

 

 

子供たちからすればいいお父さんで、大好きなお父さん。

文句さえ聞かなければ皿を綺麗に洗ってくれる、分別してくれる旦那。

人生は自分のとらえ方で180度変わる。

13年前に病気で死にそうになって、

そのときの旦那からすれば、

今はあの時夢見た未来だろう。

(もし何かあったらこのブログを読んで思い出してもらいたい。未来は何もないところから叶えるもの。わたしはその未来を作っただけ。)

 

今はお金とかじゃなくって、「誰かのために生きたっていいんじゃないか」って真剣に思っている私。

 

でもお金にシビアになって不安だなって思ったりもする。誰でもそういうことはあることなんじゃないかなって思います。

 

誰かのせいにしたって何かを乗り越えられるのだろうか?

今の状況を変えたいとき、その答えは誰かにあるのではなくて、自分にある。

それから、今の私だって、小さな頃夢見た、「自分の将来」だったりする。

死んでほしいって親に真剣に言われたことがある。今飛び降りようとマンションの上から何度も下を見下ろしたし、明日が来なければいいのにと真剣に願った。

ふと思い出した時に、あの時はそれでも未来を生きるために生きようと思った、温かい家族を持ちたかった。優しくて、子供を思いやるお母さんになりたかった。

自分が満たされなかったことを、今の自分の子供たちで叶えていく。それでいい。

温かい家庭で生まれたかった私。愛情がもっと欲しかったと思う私。

小さな頃、両親に甘えたことが無くて

教育ママでも、キャリアウーマンでもない。ただの母親になりたかった。

そういう将来に憧れていたから、今の自分は母親としてハナマルなんです。

 

また気が向いたときに続きを書いていきます🎵

     

 

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